READERS INTRODUCTION
鹿児島県支部の歴代支部長
第6代までは1994年発刊の校友会100周年記念誌の鹿児島県支部紹介ページより引用している部分があります。
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- 初代
- 坂元常磐
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- 第2代
- 木場隆亮
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- 第3代
- 伊勢虎夫
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- 第4代
- 秋丸光良
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- 第5代
- 木場正義
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- 第6代
- 村松 勇
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- 第7代
- 岩城 健
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- 第8代
- 松下健一
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- 第9代現職
- 西村正一郎
READERS INTRODUCTION
初代支部長 坂元 常盤 (Sakamoto Tokiwa)
在任期間/大正8年〜昭和32年(1919〜1957)
大正8年には既に支部を結成し昭和32年まで戦前・戦後を通じてそのとりまとめに奔走した。氏は旺盛な気迫の持ち主で幅広い社会活動家として知られていた。その主な役職は鹿児島県神社総代、鹿児島市商工会議所常任理事、鹿児島市区画整理委員、自由民主党鹿児島県支部長(初代)、自由民主党相談役、鹿児島一中同窓会会長(初代)、南光建設(株)社長などを務め活躍した。(鹿児島県支部では坂元氏について写真や詳しい情報を探しております)
第2代支部長 木場 隆亮 (Koba Takasuke)
在任期間/昭和33年~昭和38年(1957〜1963)
昭和9年社会教育社会事業科卒業と共に、鹿児島朝日新聞社(現南日本新聞社)に入社。太平洋戦争中は従軍記者として中国大陸を歴任活躍され、戦後は南日本新聞社取締役編集局長、工務局長を歴任。その後、日本民芸協団鹿児島県支部長・同顧問に就任。「民芸のさと」を経営、「平佐焼」の陶芸コレクションの第一人者として名をはせ、さまざまな人生の想いを「爽やかに歩く」という著書にまとめ、たちまちベストセラーとなり再販の好評を博した。また平成4年にはシューベルトの歌曲「菩提樹」のロマンと釈尊の悟りに因んで「菩提樹の会」を結成、全国有志の協力により植樹、鹿児島市健康の森公園に「菩提樹の森」を造成、平成6年には記念コンサートを開催した。
第3代支部長 伊勢 虎夫 (Ise Torao)
在任期間/昭和38年~昭和45年(1963〜1970)
昭和16年文学部史学科卒業。在学中、代々木練兵場で閲兵分列行進の際、東洋大学全学生の総指揮を務めるなど、気概に燃える。のちに認められて昭和46年、初代鹿児島実業高校長に栄任。意気天を衝く気概は同校の運営にも生かされ、天下の鹿実の基盤は氏によって樹立されたことは自他共に認めるところである。
第4代支部長 秋丸 光良 (Akimaru Mitsuyoshi)
在任期間/昭和45年~昭和60年(1970〜1985)
昭和6年専門部倫理東洋文学科を卒業後、煙草専売公社に入社。後に推されて鹿児島県議会議員となり、24年間に亘って活躍。鹿児島県議会副議長、自民党県議団会長などを歴任された。のちに東洋大学代議員、東洋大学理事・評議員の要職にあり、母校発展のために活躍された。折しも東洋大学評議会の会議中に倒れそのまま帰らぬ人となった。
第5代支部長 木場 正義 (Koba Masayoshi)
在任期間/昭和60年~平成8年(1985〜1994)
昭和7年専門部倫理東洋文学科卒業。卒業後鹿児島県公立高校に勤務、長年校長職を歴任、更に乞われて岩崎グループ社長室長調査役に就任。第4代秋丸支部長と共に評議員、代議員として連携して母校のために尽力、鹿児島県支部の名を全国に馳せたことは有名。なお、第二代支部長の木場隆亮氏は正義氏の兄であり、兄弟共に同学校友でしかも支部長の任にあたったのは異例のことである。昭和62年から兄隆亮氏、後輩の松下健一氏(第8代支部長)の3人で中国の長沙に6回渡航し民間交流を行ない、一度は人民日報にも掲載されたことがあった。
第6代支部長 村松 勇 (Muramatsu Isamu)
在任期間/平成8年~平成19年(1994〜2005)
第三代支部長伊勢虎夫氏の下にあって、鹿児島実業高校の柱石として同校の発展に尽くした。校友会では第3代から第5代まで県支部副支部長として尽力、支部長在任期間は代議員として鹿児島県支部の発展に貢献した。
第7代支部長 岩城 健 (Iwaki Ken)
在任期間/平成19年~平成22年(2005〜2010)
昭和40年経済学部卒業。昭和44年頃から支部活動に参加、長年支部の役員として支部運営に携わった。木場正義支部長の下で幹事長、村松支部長時に副支部長、平成19年に支部長に就任。校友会の全国的な問題となるも誰もがやりたがらない会費の問題に積極的に取り組み、会費納入率を大幅に上げ校友会の収益アップに大いに貢献した。代議員としても母校のために尽力した。また支部会報にも情熱をもって取り組む。これまでのタブロイド紙タイプから冊子形式に変更し、写真をメインにしたグラフィックな内容での発行にふみ切り、全国の支部より大きな反響を呼んだ。広告代理店・旭プラネットの代表取締役社長として市や県の広告業で長年活躍した。
第8代支部長 松下 健一 (Matsushita Kenichi)
在任期間/平成22年~令和元年(2010〜2019)
昭和47年法学部卒。昭和46年、空手の関東大学選手権優秀選手賞、全日本大学選手権では同年と翌年で2連覇優勝する。卒業後直ぐ秋丸支部長時代から支部活動に参加、秋丸〜木場〜村松支部長下で20年近く幹事長として組織の強化を図り、校友相互の親睦協調、甫水会(父兄会)県支部と連携強化、後輩の就職斡旋指導に尽力する。平成22年に第8代支部長に就任、令和元年まで三期務めた。支部長就任時に掲げた「モデル支部を目指す」の目標に向け、支部会報路線は岩城氏より引継ぎ拡充し、内外での幅広い人脈を生かし支部活動を更に広げた。会務報告で平成22年以降の活発な動きにもあるように松下氏は多忙な社長職にありながら、支部長としても大いに活動した。令和元年より副支部長に就任。東洋大学空手道部OB会副会長、全日本空手道連盟糸東会常任理事、鹿児島南洲ライオンズクラブ第40代会長、鹿児島県警備業協会前副会長など多くの役職を兼務。東洋警備の代表取締役社長として多忙な毎日を送っている。尚、10年前より趣味として俳句と水墨画を楽しんでいる。
現職 第9代支部長 西村 正一郎(Nishimura Masaichiro)
在任期間/令和元年~現在(2019〜)
昭和44年文学部卒。木場正義支部長時代から支部活動に参加、平成16年から幹事長に就任。幹事長時代に支部初の支部会報を発刊する。平成22年より副支部長を経て令和元年より支部長に就任。幹事長時代から支部総会など現場の実行委員として段取りを担う。長年、教職にあり、部活動顧問、生徒や教職の指導での経験が支部の運営にも役立ち、就任時早々に支部創立100周年記念総会開催で支部長兼実行委員長として大いにその手腕をふるった。翌年2020年より世界的コロナ禍のなかでも、臨時役員会を召集、支部会報発行を継続する等、長い冬の時期を乗り切った。2023年は紙の支部会報を時代に即したホームページへと切り替えを敢行。また日本伝統俳句協会鹿児島県支部長として、多くの受賞作を詠う。趣味のカメラでも南日本写真展や農美展で多くの受賞歴を持つ。俳句の人脈や教職時代の卒業生等との人脈も多くあり、あらゆる方面から呼ばれ、多忙な日々を送っている。
ALUMUNI INTRODUCTION
支部歴代の校友群像
今回のホームページ制作にあたり、改めて資料を広げ、歴代の校友群像をリサーチしました。
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- 霧島
- 藏前壮吉
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- 南さつま
- 桐原正吾
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- 種子島
- 髙口 稔
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- 加治木
- 奥村 司
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- 沖永良部島
- 青木 寿男
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- 出水市
- 渋谷 俊彦
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- 奄美
- 平川 久嘉
ALUMUNI INTRODUCTION
藏前 壮吉 (Kuramae Soukichi)
大正13年〜平成10年(1923〜1998)
霧島温泉で有名な霧島・丸尾村の丸尾旅館の長男として生まれる。昭和24年文学部哲学科卒。評議員・代議員、副支部長。井上円了を尊敬し、東洋大学創立100周年記念・母校賛歌「あしたに仰ぐ」四聖像の建設、支部の愛称「四聖会」の普及等母校の発展に尽力した。支部へは総会の度に遠方の霧島より参加し支部の礎を築いた。蔵前壮吉氏は先代の仁蔵氏から丸尾旅館を引き継ぎ、昭和の新婚旅行ブームの到来と共に今の地に移転改装、昭和42年に「霧島プリンスホテル」と改名。霧島温泉旅館協会の理事を務めながら牧園町議会議員を3期12年勤め霧島温泉の観光振興に尽力した。支部でも一同が集まり「霧島プリンスホテル」で懇親会を行なった。また、壮吉氏は趣味で俳句をはじめ芸術にも造詣が深く、色紙短冊や書、絵画など多くのコレクションを残している。霧島プリンスホテルは個人旅行の時代に合わせ改装、CM等で有名な「旅行人山荘」として現在、壮吉氏の孫の藏前仁宣氏が4代目代表取締役社長として活躍している。壮吉氏のアートギャラリー、丸尾旅館からの創業の歴史や古い霧島温泉郷の写真を集めた図書室を楽しむことが出来る。 (生前の壮吉氏の若き日の写真、旅館の情報は長男の藏前壮一様より提供いただきました)
桐原 正吾 (Kirihara Shogo)
大正14年〜平成25年(1924〜2013)
鹿児島市出身。昭和18年経国科(専経国科)に入学。昭和19年に学徒出陣で海軍に入隊する。昭和20年、海軍特別攻撃隊(人間魚雷「回天」の部隊)に配属されたが鹿児島大空襲で家族全員を失う。終戦後暫く失意の日々を送るが家業継続を決意し味噌醤油公団に入り味噌醤油を学ぶ。昭和22年、当時の加世田(南さつま市)の丁子屋の社長との縁で加世田万世で桐原正吾醸造店(味噌・醤油の製造販売)を創業。夫婦で事業に励み昭和35年に加世田市中心に社屋を構える。昭和36年、加世田商工会議所の議員(後に副会頭・特別顧問)、昭和61年に鹿児島県味噌醤油組合理事に就任、平成4年に理事長就任。平成23年、食品加工功労により春の叙勲で旭日双光章を授章。平成24年、校友会長賞授賞。平成25年に89歳で逝去。
髙口 稔 (Kouguchi Minoru)
昭和9年〜現在(1934〜)
南種子町出身。昭和34文学部史学科卒。教育畑一筋に歩み教育界に貢献。昭和29年、高校卒業後代用教員として小学校教諭になるも教師としての力量不足を痛感し、東洋大学文学部史学科に入学する。卒業後、中種子中学校に赴任、昭和38年に県立中種子高校に赴任、県立加世田高校、県立甲南高校に赴任。昭和58年、県立財部高校に最年少教頭として赴任する。昭和61年に県教育委員会に転属し高校振興課主幹となると同時に武岡台高校設立に関わる。昭和62年、県立武岡台高等学校創立と同時に初代教頭として赴任。平成3年、出水市立出水商業高校に校長として赴任、平成5年に鹿児島市立商業高校校長となる。平成9年、南種子教育長として種子島に赴任、平成15年退任、44年に渡る教育人生にピリオドを打つ。平成19年、教育功労により瑞宝小綬章を受章。支部には昭和40年代より参加し、今でも元気な姿を見せてくれる。奥村校友とは若き頃に県教職員の400mリレーで競い合った先輩後輩の仲。
奥村 司 (Okumura Tsukasa)
昭和11年〜現在(1936〜)
熊本市に生まれる。昭和35年文学部卒業。教育畑一筋に歩み教育界に貢献。早くに父を失くし、教師だった母の影響を受け体育教職を目指し大学を受験するが悉く不合格。1年間予備校に通う。昭和31年、鹿児島実業高校の伊勢虎雄校長(第3代支部長)から東洋大学を勧められ実業高校内で受験、法学部に合格する。母子家庭だったので、国に奨学金を申請し、学費は大学に分割を直談判する。1年後に文学部国文学科を受験し転部。昭和35年卒業と共に鹿児島市平川町の福平中学校教諭として赴任、その後、県内の中学校で国語教師として教壇に立つ。平成元年、川辺中学校で教頭職、平成9年、鹿屋市串良町の上小原小学校で校長職に就き平成10年に定年を迎え37年の教職を終える。川辺中学校で教頭時代に長男を病気で失ったことがキッカケで定年と共に「健康生きがいづくりアドバイザー」の資格を取得、平成11年より鹿児島県姶良福祉事業所の相談員になる。得意の笑いの絶えないマジックショーは相談員になってから身に付けたもの。読売新聞にも掲載される。支部には昭和40年代より参加し、毎年の懇親会で楽しいマジックを見せてくれる。
青木 寿男 (Aoki Toshio)
昭和18年〜現在(1943〜)
大島郡知名町(沖永良部島)出身。母子家庭で育つ。米軍基地で叔父が英語が話せることで英語に興味を持つ。中学・高校時代に柔道・空手を習い高校三年時に大島郡柔道大会で個人優勝。昭和37年、柔道が強いと有名な東洋大学(経済学部)に入学し柔道部を訪ねる。体格の差に柔道を断念。二部の大学空手師範の岩田万蔵氏と糸東会に出会う。勉学では英文科に潜り込み英語の講義を受ける。外人を見つけ次第英語で話しかける。昭和41年卒業、国分市の九州電子工業高校(後の都築学園・鹿児島第一高等学校)の教職に就き社会科と英語担当になる。大学の岩田師範から紹介された東勝美(昭和30年文学部卒)氏を訪ね、東氏とともに鹿児島県空手道連盟の設立と運営に関わるようになる。昭和43年九州学院大学(後の都築学園・第一工業大学)の空手道部の監督となる。空手道部が全国大会で優勝し注目され始める。昭和58年、隼人町空手道スポーツ少年団(スポーツ少年団・隼人糸東会)を結成、師弟同行を理念に青少年教育に励む。長年の功績を認められ平成27年日本体育協会公認「スポーツ指導者表彰状」受賞。鹿児島県空手道連盟第6代会長。令和4年、スポーツ振興功労により春の叙勲・旭日単光章受章。支部にも昭和50年代より参加、毎年快活な姿を見せてくれる。
渋谷 俊彦 (Shibuya Toshihiko)
昭和17年〜現在(1942〜)
出水市出身。政治家の家系に生まれる。高校時代から政治家を志す。大学では柔道部に入るも怪我で断念。昭和42年経済学部卒業。昭和43年から昭和47年まで池田清志衆議院議員の秘書を務め、同年から昭和49年まで自由民主党東京都連事務局職員および鯨岡兵輔衆議院議員の秘書を務めた。同年、故郷で県議員の補欠選挙が行われるということで32歳で鹿児島に帰省し、補欠選挙に挑むが落選。その後も選挙に挑んでは落選し8年間の苦しい時期を過ごす。この時期に「逆境は人生最大の師なり」を自身の言葉とした。昭和57年、合併前の旧出水市議会議員に初当選。平成7年3月まで市議を4期務める。平成2年11月〜平成4年11月 旧出水市議会副議長。平成4年11月〜平成6年11月旧出水市監査委員(議員選出)。平成11年〜18年3月 旧出水市長を2期務める。市町村合併後初の出水市長選挙で当選を果たし、平成22年4月から平成30年(合併後2期目・通算5期目)の長期に渡り出水市長職を務めた。平成30年に勇退。支部には昭和50年代より支部総会に参加、乾杯の音頭やスピーチ等で協力、校友等と旧交を温める。渋谷という名前は出水郷土史に因ると、先祖は鎌倉時代に幕府の命で関東から北薩にやってきた武家「渋谷一族」に辿る。令和4年、地方自治功労により秋の叙勲で旭日中綬章受章。
平川 久嘉 (Hirakawa Hisayoshi)
昭和22年〜現在(1947〜)
奄美大島出身。高校卒業後、昭和41年に国分(霧島市)の陸上自衛隊教育隊に入隊。暫く後に上京、昭和42年に夜間の東洋大学経済学部に入学、昭和46年に卒業。陸上自衛隊では九州に1年半、関東地方に25年、北海道に8年半と35年勤めた。自衛官退役後は故郷の奄美大島に帰り、鹿児島の新聞社の奄美支社で新聞記者の職に就く。当時は平成の大合併の最中で合併の可否で揺れる奄美群島内の市町村を取材するために奔走する。しかし、2年半後に新聞社が経営破綻し解雇となる。同年に町会議員選挙があり立候補し当選する。その後、市議会議員選挙に立候補し当選、奄美市議会議員となり4期15年を務める。全国でも珍しい一市一町一村の飛び地合併の誕生、奄美集中豪雨被害、瀬戸内町・奄美市への陸上自衛隊の配備、少子化対策、教育機会均等のため大島北高校の存続を施作、奄美大島・徳之島・沖縄島北部・西之表島の世界自然遺産登録に携わるなど議員活動は多岐にわたった。支部へは奄美より来航・参加し校友等と旧交を温める。平成26年に奄美群島出身の東洋大学卒業生達で奄美鉄紺会を結成、初代会長となる。地方自治功労により令和3年春の叙勲・旭日双光章受章。